10月28日未明、肺炎で危篤状態になり、1日半がんばりましたが、29日17時30分、息を引き取りました。91歳。あと20日で92歳の誕生日でした。8年ほど前に介護施設に入ってから、ずっと帰れなかった家に帰ることができました。
 
 医師から家族が呼ばれてから37時間、とても粗く辛そうな呼吸が、ゆっくり弱っていきました。呼吸に力があった時は痰がからんで苦しそうでしたが、弱まるとともに苦しさもなくなっていくように見えました。
 呼吸が止まった後も、ナースステーションに機械から送られる数値は、50近い血圧があったそうです。私は、少し家に帰っていた妹が返ってくるまでは何としてもと、と声をかけ続けました。そのたび、数回呼吸が再開し、また止まります。何度も繰り返し、妹が着いて、強く呼んだ時に一回呼吸したのを最後に、二度と息をしなくなりました。

 私は長いこと、忙しさにかまけて、年に3、4回しか顔を出さずにいたので、罪の意識がありました。父の最後の37時間は私には10年分に当たる時間でした。手やおでこをさすって、声をかけて過ごせたことで、自分を慰めています。

 父は群馬県、現在の伊勢崎市に生まれました。一人のお姉さん以外3人の男兄弟は全員、兵役に就きました。シベリア抑留の辛い体験をもつ兄と弟、わたしにとっては叔父ですが、私が幼い頃、伊勢崎で、叔父たちは戦争の話をされるのをとてもいやがっていた記憶があります。
対照的に、内地で終戦を迎えた父は軍隊と戦争の話をよく私にしてくれました。

 上官から饅頭を買いに行かされ、当然1つくらいはお駄賃がわりにくれるだろう、と待っていたら、何をやっておる、と足腰が立たなくなるほど木刀でたたかれた、という話など、よく聞かされました。
 自由な意志が表せない、そんな小さな不条理を感じることができたことが、父の戦後の人生につながったのではないか、と私は思います。

 戦後、父は自由と民主主義を貫いた人生だったと思います。
認知症で介護施設に入る直前まで、憲法はアメリカに押しつけられものではないことを示そうとしていました。その証として、自由民権運動、とくに父の故郷に大きな影響を及ぼした秩父事件の資料発掘に情熱を傾けていました。
日本の庶民には、戦前から自由と民主主義を作り上げる力と展望がしっかりあったことを、故郷の農村を回って示そうとしていました。80歳を超えて情熱を語る父に、私も一緒につきあいたい、と思っていました。

 私と妹が卒業した上尾市立西中学校は、私の学年が最初の一年生でした。当時、田んぼを埋め立てて造成し、校舎と校庭をつくったため、校庭はでこぼこ、体育館もはじめはないような学校でした。
 卒業してからの同窓会で、複数の恩師から、「お父さんはお元気ですか」と聞かれ、父と学校の当時の関係を聞き驚きます。
 母が病弱なため、保護者会には父が顔を出していましたが、保護者が教師にこれをしてほしい、あれをしてほしい、と要望をたくさん出すと、父が、「みなさん、ここは先生たちに自由に思い切ってやってもらいませんか」と、よくいさめていた。その言葉が、当時の教師集団にどれだけ救いになったか、という逸話です。
 父は学校の教師になる学校・群馬師範を卒業しています。戦前・戦中と、お国のために命を捧げる教育が大変な犠牲をもたらしたこと、教師が言いたいことが言えなくなるような学校や社会は、とても危険であることを肌で感じていたのだと思います。

 いま、平和・教育、民主主義、憲法が危うくなっています。そうとうな危機感をもって亡くなっていったと思います。
 その思いを、私はしっかり受け継いでいきたい、と強く思います。

 お忙しい中、最後まで父を見送るためお集まりいただいたみなさんに、心から御礼を申し上げ、挨拶を終わります。ありがとうございました。




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